中部支部(早化会)第3回支部総会での小林氏の講演内容の概要

2010年2月20日(土)、「名古屋百楽」14階ホールにて、第3回の総会時に行われた小林俊夫氏の講演会の概要です。

講師の小林氏


満洲の歴史
1.満洲の歴史を理解する上で基本となる、地勢、人口の変遷及び万里の長城の目的

 満洲は北海道~樺太と同緯度に位置し、面積の8割以上がアムール川流域(松花江・牡丹江・黒竜江 等は支流)。2割以下が南部・渤海湾にそそぐ遼河流域。古代物流は川が主体、物の移動は遼河流域 でアムール川流域は、ほとんどなかった。気候は亜寒帯で内陸部。人が生活するには非常に厳しい条 件である。人口は清朝末期で、百~数百万人。清朝の「封禁令」のためにこの地域は漢民族は殆ど居 住していなかった。現在、漢民族約1億人移住して漢民族比率が90%を占めるに至っている。

 漢民族が中国を統治したのは春秋・漢・明の3王朝である。その時に異民族(夷荻)の侵入防御のため に建造されたのが万里の長城。即ち漢民族が統治して守った領土は万里の長城の内側にある事を証 明している歴史的建造物です。

 万里の長城の東端に山海関が有ります。山海関が戦いの要衝地。清が明へ、日本軍山海関占領、等 各時代で戦闘が繰り広げられた。この関の内側が関内(中華)、関の東外側が関東で関東州(遼寧省)。 日本の軍隊はこの関東州を守る軍であることから関東軍と呼ばれた。

2.12世紀~17世紀(無政府状態)の満洲

 満洲の地には、小人数の満州族(女真族)、蒙古族、朝鮮族が遊牧していた。1115年に「女真族」が 「金」を建国したが、13世紀に蒙古族「元」に滅ぼされ「元」の直轄地になる。17世紀初頭、ヌルハチ (女真族)は「後金」を再興し、国号を「清」に改め、明の李将軍の手引きのより山海関を抜けて北京を 占領し「清朝」の首都を北京に遷都した。清朝は故郷・満洲に対して漢民族の移住を禁止した「封禁令」 を出した。依然として物流は遼河流域だけであり、8割を占めるアムール川流域は人のほとんどいない 無政府状態が続いていた。

3.17世紀~20世紀のロシア帝国の侵略

 ロシア帝国の東進は17世紀ごろ黒テンの毛皮を求めてウラル山脈を越え東進を始めた。ロシア財閥・ ストロガノフ家が傭兵(コザック兵)を雇い更に東進(ネルチンスク条約・キャフタ条約・アングル条約) し、東清鉄道の敷設権を得て、アムール川流域を実効支配。日清戦争後三国干渉を経て大連・旅順 租借、大連ーハルビン間(南満州支線)鉄道敷設権を得て遼河流域も実効支配し、ほぼ満洲全域を 実効支配した。

4.日露戦争から「満洲国」建国まで

 ロシアの南下政策に危機感を持った日本が朝鮮半島の支配権を巡って日露対立し日露戦争勃発。 1905年米国の仲介によりポーツマツ条約締結。遼河流域の旅順・大連を含む関東州と南満洲鉄道 の租借権を得て満洲進出の足掛かりを得る。第一次世界大戦後ロシア革命勃発、辛亥革命勃発、 等で満州は再び無政府状態に陥る。
 この時期、台頭してきたのは軍閥・張作霖(土地の用心棒、武 装化した集団)であった。資金源はアヘン。産地の熱河省・牡丹江と流通(満鉄)そして市場 (ハルビン・奉天・瀋陽)を抑える事によって巨額な資金を得ていた。この利権を関東軍が張作霖 から奪い取り関東軍の軍資金に組み入れて行った。

 これが日本の大本営から半独立した作戦を遂 行出来た資金的裏付け。張作霖を抑え、革命間もないソ連に満洲に目を向ける暇がない隙をつい てアムール川流域にも進出して満洲利権を一手に握り、アヘン資金を元手に傀儡国家「満洲国」 まで建国し満洲全領域の統治権を持つに至った。満州国建国国債はアヘン専売による収益が 担保されていたものであった。

5.太平洋戦争後

 太平洋戦争の終戦直後の1945年8月にソ連軍が満洲国へ侵攻し占領する。以後ソ連が満州、占領 した朝鮮半島、樺太、千島列島を含め実効支配(統治)する事となる。
 中華民国内では、毛沢東率いる中国共産党との国共内戦が興り、1949年に共産国家「中華人民 共和国」が誕生した。その後もソ連の満洲統治は続き、中華人民共和国に全面的に返還されたの は、朝鮮戦争終了した7年後の1957年であった。

<添付資料>満洲をめぐる歴史と満洲地域年表

(図はクリックすると拡大表示されます)

△ページトップへ戻る